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【オリジナルソング&小説】桜色のカリステフス

オリジナルソング

 

女性用オフボーカル

カウントあり 

カウントなし 

男性用オフボーカル

カウントあり 

カウントなし 

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桜色のカリステフス

変わることが怖いわたしにとって、今日という日はかつてないほどに憂鬱な一日かもしれない。
今日は高校の入学式。家族や親戚には、もうお姉さんだねー。なんて言われたけど、子供のままでいいからちょっぴり幸せで変わらない日常を享受させてほしかった。
「はぁー……」
中学の友達はみんな違う学校になってしまったこともあって、どんどん不安とため息が大きくなっていく。
初日から遅刻しないように早めに出るつもりだったのに、ネガティブシンキングに取り込まれていたせいでもうギリギリの時間だった。
「……行ってきます」
重い腰をゆっくりと上げて、もう何度目かわからないため息を吐きながら玄関のドアを開けた。

正門に立っている知らない先生。大きな校庭に広い下駄箱。前の学校とは違う色の廊下……。入学式のために体育館へ向かう道すがら、見慣れないものを見るたびに不安の芽をどんどん育てていくわたし。
3人組の女の子たちが立ち止まりながら楽しそうに話しているのを尻目に、ぺたぺたと、やけに大きく聞こえる上履きの音を感じながら俯きがちに歩いていく……。
──そんなわたしの歩みが不意に止まる。

その絵が目に入ったのは偶然だった……

はずなのに、運命的なものを感じるくらい、その絵に目も心も奪われた。
廊下の隅にひっそりと置かれている、イーゼルの上に立てかけられた一枚の風景画。
春という始まりの季節を祝福しているかのような、桜の木と遊歩道がモチーフの絵。
上手いとか下手とか、絵心の無いわたしにはわからないけれど、その絵から目が離せない。
不安と緊張で少し速くなっていた鼓動は、高揚感がもたらした鼓動に上書きされてしまった。
普段のわたしなら、今こんなとこでぼーっと立ち止まっていたら目立っちゃう。とか、頭の中でぐるぐる考えて行動には移さなかったと思う。
興味?好奇心?……今のわたしにはそれを的確に表現できる言葉が見つからないけれど、そんな何かがわたしの臆病を上回って、その場にわたしを縫い付けている。
入学式が始まる時間になって先生に声をかけられるまで、わたしはずっとその絵を見ていた……。

不安だらけだった新しい学校生活も、はや1ヶ月。いざ始まってみれば一緒にご飯を食べたり遊びに行ったりする友達もすんなり出来た。
そして、休み時間や移動教室の合間にあの絵を見ることがわたしの新しい日常……。
新しく出来た友達には、またあの絵?って笑いながら呆れられるくらい、毎日のように足を運んでいた。
何故こんなにも心を惹かれるのかわからないけれど、温かさや優しさを感じられて、胸がきゅっとなるような感覚も沸き上がってくる。
何度見ても薄れることのない感情が自分でも不思議なくらいだった……。

その絵を見ているうちに、この絵を描いた人はどんな人なんだろう?なんて考える時間が多くなった。
とはいえ、絵には名前が書かれているわけでもないし、わざわざ先生に聞いたりするのも恥ずかしいし……。
そんなことを考えながらいつものように絵を見に行くと、青色のラインが入った上履きを履いている男子生徒が、絵をどこかに運ぼうとしていた。
うちの学校は学年毎に上履きのラインや校章の色が決められていて、1年は赤、2年は緑、3年は青になる。
「あ、あのっ……!」
もしかしてという気持ちと、見れなくなっちゃうかもって思った瞬間に、思わず声をかけてしまっていた。
知らない人に声をかけてしまった恥ずかしさと、慣れないことをしたせいで上擦った声になってしまった恥ずかしさで、心拍数が跳ね上がって耳の裏もどんどん熱くなっていく。
「は、はいっ……!?」
声をかけられるとは思ってもみなかったのか、わたしみたいに上擦った声で返事を返す先輩と視線が交わる……。
その状況がなんとなくおかしくて、どちらからともなくふっと笑みがこぼれた。
人の良さそうな、ふわっとした笑顔を浮かべた先輩を見て、始めてこの絵を見たときのような高揚感と暖かいものを感じた……。

 

予想していた通り先輩はこの絵を描いた人だったようで、今飾ってある絵と新しい絵を交換しようとしていたところだったらしい。
思いがけない遭遇によくわからない状態になってしまっていたわたしは、この絵を毎日見るくらい好きなことだの、初めて見たときに感じたことだのを、しどろもどろになりながら言い放ち。
挙句の果てには、本当にいつもこの絵にはお世話になっていて……!とか。支離滅裂な言動のオンパレードを本人の目の前で披露してしまっていた。
そんな、ちょっと……いや、かなりアレな子だったわたしの話を、先輩は嫌な顔一つせず聞いていてくれた。
恥ずかしさと申し訳なさで、またおかしなことを口にしそうになった瞬間。
「もし良かったらなんだけど……この絵、貰ってくれるかな?」と、驚きの言葉を先輩が発した。
頭の中がはてなでいっぱいになって、開きかけた口をそのままに硬直する。そんなちょっと……いや、かなりアホの子なわたしへと、そっと絵を差し出す先輩。
目の前に差し出された絵を認識してようやく我に返った。
「えぇっ……!?いや、そんな、頂けないです……!」
「まさか僕の絵を気に入ってくれてる人がいると思ってなかったから嬉しくて……。それに、誰かに見てもらえたほうが僕も嬉しいから」
「でも、美術室に飾ったりしないんですか?」
穏やかな笑みを浮かべる先輩に問いかけると、その笑みが苦笑いに変わっていく。
「実は今美術部って僕しかいないんだよね……。ここに展示させてもらってる分以外は持って帰るかしまっておくだけだから、遠慮なく貰ってくれると嬉しいな」
「ほんとにいいんですか……?」
小さくうなずく先輩を見て、差し出された絵を恐る恐る受け取る。
うわうわうわ、貰っちゃった……!嬉しさが心の奥からどんどん溜まっていって溢れだしてしまいそう。
夢見心地な気分でまたもや固まっていたわたしは、手にした絵の感触でふと思い至る。
「……あ!額縁……額縁買わなきゃ……!」
「あはは……そこまでしなくても」
「いえ!ちゃんと飾って大事に拝見させてもらいます!」
「ふふっ……拝見って、普通に見てくれればいいから」
舞い上がってまた暴走気味なわたしの発言で、くすりと先輩が笑う。
「これは学校のだからあげられないけど、今度家に余ってる額縁を持ってきてあげるよ」
安物だし何回か使っちゃったものだから、それでもいいならだけど。と、申し訳なさそうに付け加える先輩。
「いや!いやいやいや!そんなことまでしてもらうわけには……!」
むしろ私のほうが申し訳なさすぎて、首振り人形のように頭をふるふるさせながら遠慮する。
「いいのいいの、いくつか余ってるし気にしないで」
「でも……」
「うーんと……。絵を描いてて技術的なことを褒められたり指摘されることはよくあるけど、自分の絵が好きだってあんなに真っすぐ言われることって初めてだったから……」
少し恥ずかしそうにしながら言う先輩。
わたしも、捲し立てるように想いを伝えていた自分を思い出して恥ずかしいです。はい。
「だから、そう言ってくれてすごく嬉しかったんだ。そのお礼だと思って貰ってやって」
「何から何まですみません……」
至れり尽くせりっぷりに平身低頭するわたし。
「また今度持ってくるね。……えーっと」
不思議そうな顔をして急に動きが止まる先輩。わたしまた何か失礼なことを……?
「そういえばお互い自己紹介してなかったね」
してた。急に話しかけて捲し立てた上に絵まで頂いてしまったのに、名前さえ名乗ってなかった!
ぺこぺこと何度も頭を下げるわたしに、そんなことしなくていいからと少し可笑しそうに笑う先輩。
結局、始業のチャイムが鳴るまでそんなぐだぐだなやり取りをしていた。
……これがわたしと先輩の出会い。
変化を嫌い、流れに身を任せるだけだったわたしが、自ら選択した未知だった……。

 

先輩と出会ってから数日。わたしの部屋には先輩の絵が飾られている。
あの後、お互いにちゃんと自己紹介を交わし、次の日には先輩が額縁を持ってきてくれた。
朝起きて、夜寝る前に。そしてふとした瞬間に見ては温かな感情が沸き上がってくる。
自分の部屋に先輩の絵があるんだって思うと、嬉しくてにやにやしてきちゃう。
見慣れたはずの自分の部屋が、こんなにも新鮮に感じられるなんて思いもしなかった。
今日もベッドに入る前に眺めていたのに、ベッドに入ってからも自然と絵のほうに視線が吸い寄せられていく。
幸せな気持ちに包まれながら、わたしはゆっくりと眠りに落ちていった……。

さらに数日後のお昼休み。
数日中には新しい絵を置くよと、先輩が言っていたことを思い出し、急いでお昼ご飯を食べて絵が展示されている廊下へと足を向けていた。
わくわくしながら展示場所に近づいた時、まさに今イーゼルに絵を飾ろうとしている先輩の後ろ姿が見えた。
「せっ……」
嬉しくなって声をかけようとした瞬間に、前回の暴走を思い出して小さく深呼吸ひとつ。
そう、今のわたしは借りてきた猫よと、自分に言い聞かせながら先輩へと近づく。
「せ、先輩。こんにちは……」
「うん?……ああ、こんにちは」
振りむいた先輩が、微笑みながら挨拶を返してくれる。
「あ、あの……!この間はありがとうございました!大切に飾って毎日見させてもらってます!」
慌てた声に勢いのあるお辞儀。借りてきた猫?先輩と目が合った瞬間に家出してしまいました。
「ううん、こちらこそ。大切にしてくれてありがとう」
そんなわたしの姿に呆れることなく優しく応対してくれる先輩に心の中で感謝しつつ、イーゼルのほうに目線を向ける。
「わぁ……」
そこには、これから訪れる梅雨の季節が描かれた新しい絵が飾られていた。
紫陽花と、どんよりした雲間から少し明るさが見えるような色合いの空。梅雨の時期特有の雨上がりの雰囲気がすごく綺麗で……。
「どうかな?」
「すごいです……!とっても綺麗……。すみません、こんなことしか言えなくて……。でも、この絵も大好きです!」
「ううん、ありがとう……。ストレートに言われると恥ずかしいけど……すごく嬉しいよ」
私の拙い賛辞でも嬉しそうに笑みを浮かべる先輩を見て、わたしまで嬉しくなってくる。
「良かったらこの絵もいる?また新しい絵に変えるときになるけど」
「いや!いやいやいや!だ、駄目ですよ!こないだ頂いた絵の分でさえどうお返しすればいいか……」
前も思いましたけど先輩、びっくり発言をさらっと言いすぎです。
「うーん、気にしなくていいんだけどなぁ。絵を描いてる身としては見てくれる人の手に渡るほうが嬉しいし」
「いや、そうかもしれませんけど……こう、貰ってばかりなのは罪悪感が……」
お金渡すのは違うし、そもそも先輩が拒否するだろう。お互いに描いた絵を交換できたりすれば素敵なんだろうけどわたしに絵心はない。お、お菓子作って渡すとか……?
「ううん……そっかぁ。んんー……あ、そうだ」
あーでもないこーでもないと頭の中で考えていると、同じく考え込んでいた先輩が何かを思いついたような声を上げる。
「何か部活入ってたり、バイトしてたりする?何かやる予定があるとか」
「いえ……何もやってないです」
首を横にふりふり。小学生時代から生粋の帰宅部です。
「時間がある時で構わないから、もしよかったら絵のモデルをお願いできないかな?」
「え……?…………えっ!?」
え?な、なに?えのもでる……?
あまりの衝撃に思考が混乱してしまう。
「人物画があまり得意じゃなくて、受験のためにも練習したいなって思ってて……。駄目かな……?」
「だ、駄目とかじゃないですけど……」
うん。駄目じゃない……どころか嬉しいことなんだけど……ほんとにわたしなんかでいいのだろうか。
「もちろん他に何かしたいことがあったり、気が乗らないときは自分の時間を優先してもらって構わないから……もしよければあなたを描かせて下さい。お願いします」
あぁ……。そもそも絵を貰ってるのはこっちなのに。先輩にそんなふうに頭を下げてもらう理由なんてないのに。
自信は……ない。けど、今卑屈になるのは、こんなに真剣な先輩に対して誠実じゃない。
それに、わたしなんかで……ううん、わたしで力になれるのなら……先輩の助けになるのなら。
「……はい。よろしくお願いします」
そして、入学式で先輩の絵に勇気を貰ったから、少しでも何かを返せるのなら……。そんな想いを込めて、わたしは先輩に返事をした。

 

「こ、こんな感じですか?」
「もっと自然な感じでいいよ。……うん。そんな感じ。疲れたら言ってね」
とある休日の日、わたしと先輩は絵を描くために学校の近くの公園に来ていた。
大きな木の前にあるベンチに座りながら、絵を描いてる先輩のほうを見る……。
普段すごく優しい眼差しの先輩が、集中して絵を描き始めると、鋭さを感じるくらい真剣な眼差しになることを知った。
悩み始めると少し口をとがらせて、手に持った筆を人差し指でこする癖があるのを知った。
気を緩めると、先輩の表情や仕草に視線が、心が向いてしまいそうになる。
……だめだめ。わたしの役割をちゃんと果たさなきゃ。
あれから何回か絵のモデルを引き受けて、今日で5回目。
今までは放課後に1、2時間程度美術室で描くだけだったけど、こうして休日に学校の外で会って描くのは初めてのことだった。
絵のモデルというともっとこう……静かにじっとしてるようなイメージだったけど、先輩が話しかけてくれるので、軽くおしゃべりしたりしながら気楽にやらせてもらっている。
もちろん先輩が集中してるときや、ふとした瞬間にお互い無言になる時間もある。
でも、その時間や空気も心地良くて嫌じゃない。先輩の持つ雰囲気や、優しい人柄がそう感じさせるのだろうか。
「少し休憩にしようか?」
描き始めて20分くらい経った頃、しばらく無言だった先輩から提案される。
「まだそんなに経ってないですし、全然大丈夫ですよ?」
「いや、僕が疲れちゃったから休憩したいだけ」
ちょっぴり恥ずかしそうな微笑みを浮かべながら言う先輩。
優しい嘘。覚えてますよ、描き始めると食事を忘れるくらい長時間描いちゃうって前に言ってたこと。
「ふう……。ごめんね、休日まで付き合わせちゃって」
先輩が少し間を空けて私の隣に座り、わたしのほうへと顔を向ける。
「い、いえ……。せ、先輩は画家を目指してるんですか?」
うー……。先輩と目が合うと、どうしても緊張しちゃう。
……先輩と一緒の時間を過ごすうちに、いつの間にか先輩に惹かれていく自分がいた。
ううん、もしかしたら初めて先輩の絵を見たときのように、初めて先輩と出会ったときから惹かれていたのかもしれない。
どちらにせよ、はっきりと自分の恋心を自覚してしまったわたしは、先輩といると前以上にいっぱいいっぱいになってしまう……。
「うん……。まだまだ胸を張って言えるような実力じゃないけど、そうなれたらいいなと思ってるよ」
焦って唐突な質問を投げかけるわたしに、先輩がはにかみながら答える。
「そんなことないですよ!って絵心がないわたしが言っても説得力ないですけど……」
「ううん、絵を褒めてくれたおかげで自信になったというか、頑張ろうって思えたから、すごく励みになってます。ありがとう」
「いえ……そんな……」
先輩の言葉の一つ一つが嬉しくて、わたしの好きが少しずつ積み重なっていく。
「進路はやっぱり美大を目指してるんですよね……?」
「うん。そうだね……何校か目指してるところはあるけど、もっと頑張らないと」
ふと、気付きたくなかったことが頭に過ぎってしまう。暖かな時間の終わりはそう遠くない未来に訪れるのだと……。
その時が来たら、積み重なった想いはそれ以上増えることも減ることも無く、風化していくだけのものになってしまうのだろうか?
ああ、そっか……。またわたしは変わらない時間を望んでいるんだ。踏み出したからこその今があるというのに。
そもそも、本当に自らが手繰り寄せたものだった?最初から全て、先輩に導かれていただけじゃなくて?
ぐるぐると、思考が望まない方向へと堕ちていく。
変わりたいと願ったくせに、臆病者のわたしに逆戻り……。いや、きっと幸せな時間に浸っていただけで、臆病なままだったのだ。
体を伸ばしながら先輩が立ち上がる。
「よし、休憩終わり。小まめに休憩は取るつもりだけど、途中で疲れたりしたら気にしないで言ってね」
「はい。体力には自信があるので大丈夫です!」
……恐怖を払拭するように明るく振る舞う自分が滑稽に思えた。

分かってる。変わることを受け入れなければならないことを。
分かってる。今の時間に浸り、穏やかな日々を受け入れるだけの都合の良い自分が駄目なことも。
分かってる。先を恐れてこのまま終わりのときを迎えることが、どれほど愚かなことなのかも……。

それでもわたしはきっと、あるはずのない永遠の今という時間に捕らわれて動けない──。

 

それからの日々はあっという間だった。
先輩のお手伝いをしながら、たまに息抜きに二人で遊びにも出かけたりして、幸せな時間が過ぎてゆく。
大事なことは言えないまま、まだ大丈夫って幾度も繰り返して、もうちょっとって先延ばしにして。
幸せな時間を享受しながら、だんだんと空々しくなっていく大丈夫を自分に言い聞かせるしかなくなって……。
そうして、甘い夢に浸っているだけの日々はあっという間に過ぎていった。

 

粛々と進んでいった卒業式も終わり、わたしは正門の近くで先輩を待っていた。
現実感が薄れていくようなおぼろげな感覚を抱えながら、晴れ渡った青空をぼんやりと見上げる。
一人、また一人と正門を通り過ぎていく。卒業生の笑顔や泣き顔を見て、取り残されたような自分の存在が、ひどく場違いなものに思えてしまう。
下駄箱で同級生と別れの挨拶を交わしていた先輩がこっちに気づいて、わたしのほうへと少し足早に歩いてくる。
別れへの足音が一歩、また一歩と近づいて、わたしの前で……止まった。
「……待っててくれてありがとう」
申し訳なさそうに気遣うような表情。出会った時から何度も見てきた。わたしの好きな人の、好きな表情。
優しい声や仕草……目の前で感じられる先輩の存在が、あと少しで面影へと変わってしまう。
「いえ……。ご卒業おめでとうございます」
この期に及んで、繕った笑顔で本心から思えない言葉を吐く自分はなんなのだろう。
「今までたくさん絵を見てくれたり、手伝ってくれたり、本当にありがとう。大学に受かることができたのは、間違いなくあの時間があったおかげだよ」
そう、先輩は希望していた美大に合格した。希望の、ここから遠く離れた大学に……。
「わたしこそ、絵を頂いたり描いてもらったり、先輩から貰った絵はわたしの生涯の宝物です!幸せな時間をありがとうございました……!」
今度は紛れもない心からの言葉。先輩の門出をわたしの後悔で汚さないように、今にもこぼれ落ちてしまいそうになる涙を堪えて頭を下げる。
「……」
お互いが口を噤み、静止して切り取られたかのような一瞬。春の訪れを感じさせる優しい風が吹く。
遠くからぼんやりと聴こえる卒業生たちの笑い声や泣き声と対照的に、木々の揺れる音が明瞭に聴こえる。
……言いたいことはたくさんあるのに、言葉を発することができない。
逡巡しているうちに、風も木々の音も、ゆっくりと収まっていく……。
「せ、先輩は向こうで一人暮らしするんですよね?」
「うん……。家事とか全然できないし、最初は大変そうだ」
苦笑する先輩。
この風が収まってしまったら時間が終わってしまう気がして、沈黙を嫌って咄嗟に取り留めのない言葉を繋ぐ。
「……絵に没頭してご飯作るのめんどくさいからって、コンビニのお世話になりっぱなしはだめですよー?」
「あー……それはすごくありえる話だね……」
抵抗を続けるわたしを諭すかのように、会話が途切れた瞬間に一際強い風が吹き抜け、再度沈黙の時間が訪れる。
「……」
優しいあなたは、わたしとの別れを惜しんでくれていますか?
意味のある言葉を探っても出てこなくて、まとまらないままに声を発しようとして躊躇して。
自惚れでなければ、先輩もそんなふうに思い倦ねているように見える。
言葉にすればたった二文字の想いさえ伝えられないわたしに出来ることは、もう……ない。
せめて先輩の良い思い出としていられるように……最後くらいちゃんと笑顔で送り出そう。
幕引きを後押しするかのように風も音も止んで、静寂が訪れる。
……さあ、臆病者のわたしが得意とする逃避を、演じよう。
「……それじゃあ先輩そろそろ、身体に気をつけて」
「うん。引っ越しとかいろいろ片付いたら連絡するよ」
「はい。……先輩、今までありがとうございました!先輩が画家になったら、またたくさん絵を見せて下さいね!」
「あはは、いつか胸を張って見せられるように頑張るよ」
「そうなれるように応援しています」
「うん、いろいろありがとう……。それじゃあそろそろ行くね」
「はい……さよなら」
「……さよなら。……」
離れていく途中、先輩がなにかを呟いた気がした。
先輩がゆっくりと正門へと歩き出す。笑顔で立ち尽くすわたしからどんどん離れていく。
離れていく背中を見ながら、先輩が振り返ったら伝えようなんてことを考えた。ほんとに振り返ってもどうせ言えないのに。
走って追いかけて縋り付いて泣いてしまいたいと思った。できないくせに。
頬が震える。まだ笑顔でいられているだろうか。
先輩の後ろ姿が、完全に見えなくなった……。
……。
「っ……!う……、あ、あぁぁ……っ」
後悔、別れの悲しみ、楽しかった時間。たくさんの思い出と感情が巡って溢れ出す。
もし。また。いつか……。そんなあやふやなものに縋り付いたわたしの自業自得なのに。
言わないじゃなく、ただ言えなかった。選ぶことさえしなかった。
変わりたいと願ったはずだったのに。そう思っていたことさえ心の隅に追いやって、自分にとって居心地のいい瞬間に居続けただけ。
幸せだった記憶さえ塗りつぶしてしまいそうなくらいの後悔。
弱さが幸せを蝕むのなら、後悔を生んでしまうものなら、強くなりたいと思った。
あやふやなものに縋りつくのではなく、あやふやなものを確固たるものに変えられるように。
変わっていくものに流されるのではなく、自らの意志で変えていけるように……。
憎らしいほどの青空の下、握りしめてくしゃくしゃになったスカートをさらに強く握りしめる。
今度こそ間違えない。絶対に変わるんだって、そう、心に強く刻んだ……。

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